4 JAL健康講演会について

 日本航空(JAL)の運航乗員健康管理室は、航空機乗務員の宇宙線に起因する放射線被曝の問題について、1992年2月25日に第25回健康講演会を、1993年6月10日に第26回健康講演会を行っています。当日の講演会の記録がおのおの『宇宙放射線について』(第25回講演会)、『飛行中の宇宙放射線の測定結果について』(第26回講演会)として小冊子になっています。
 すでによくご存じのことでしょうが、日本航空は1991年に「宇宙放射線研究会」なる組織を作り、航空機乗務員の宇宙線に起因する放射線被曝の問題について検討しています。研究会の5人の委員と2人の傍聴者は以下のとおりです。

 委員長 望月幸夫(東京慈恵会医科大学・放射線医学教室教授)
 委 員 川島勝弘(放射線医学総合研究所・物理研究部部長)
  委 員  藤高和信(放射線医学総合研究所・環境衛生部第一研究室室長)
  委 員  関谷 透(杏雲堂病院放射線科部長)
 委 員 飛鳥田一朗(OMZ産業医)
 傍聴者 加地正伸(OMZ産業医)、安藤秀樹(IMZ産業医−客乗担当)

 ところで、上述の2つの健康講演会はどちらも宇宙放射線研究会の委員である望月幸夫、川島勝弘、藤高和信の3氏による講演となっています。私はこの講演会に実際に参加したわけではありませんので、この小冊子を読んだ限りでの内容紹介と若干の問題点を指摘したいと思います。



@第25回講演会について

     司会      望月幸夫
(1)総論        川島勝弘
(2)ガンマ線について  藤高和信>
(3)中性子線について  川島勝弘
(4)生物学的立場から  望月幸夫

Gan.gif (2513 バイト)  「総論」の川島報告では、宇宙線に関する全般的なことが詳しく述べられています。「ガンマ線について」の藤高報告では宇宙線のなかの電離成分、「中性子線について」の川島報告では宇宙線のなかの中性子成分について、おのおの非常に詳しく述べられています。たぶん専門的な難しい講演で、大変失礼ながら参加者には十分に理解できなかったのではないかと推察しています。実際、この講演会に出席した人からも、「学会で使うような非常に難しそうなスライドが理解を超えるスピードで次つぎに映され大変困った」などという声を聞いています。しかし、報告内容についていえば、特に間違っている部分があるわけではありません。
 これに対して「生物学的立場から」の望月報告は、放射線障害に関する全般的なことを述べたものですが、大変に問題の多い報告内容となっています。たとえば、放射線ホルミシスを「少量の放射線の被曝は生体にかえってよい影響をもたらす」などと手前勝手に規定し、N・A・フリゲリオらによる自然放射線量率と人のガン発生率とのあいだの負の相関関係(因果関係ではない!)を示す図を紹介したり(図7参照)、あるいは広島・長崎の原爆被爆者のうち0.11〜1.2シーベルト被曝した人びとは、これより多く被曝をした人びとや少なく被曝をした人びとより長寿であるというC・A・トビアスによるデータを紹介したりしています。
 望月報告のなかで必ずしも明言しているわけではありませんが、航空機乗務員の宇宙線に起因する放射線被曝は低線量であり心配ないどころか最近では健康によいという放射線ホルミシスさえある、かのごとき印象を望月報告が当日の参加者に大いに与えたであろうことは容易に想像ができます。のちに詳しく批判することになりますが、望月報告は第26回講演会でさらに一層たちの悪い内容に発展(退歩?)することになります。その萌芽を、私はこの第25回講演会のなかに見ることができます。


A第26回講演会について

    司会進行       望月幸夫
(1)計測系について     川島勝弘
(2)計測結果について    藤高和信
(3)生物学的立場からの評価 望月幸夫

「計測系について」の川島報告では、日本航空の宇宙放射線研究会がどんな放射線測定器を用いて線量測定を行ってきたのかが詳しく述べられています。また、「計測結果について」の藤高報告では線量測定の結果が詳しく述べられています。
 川島報告にある放射線測定器を紹介すると次のとおりです。 ○電離成分の測定器について
 積算線量の測定は、ケイ酸マグネシウム素子の熱ルミネセンス線量計(TLD)を使用しています。この他に、ヨウ化ナトリウム・シンチレーション検出器を用いた線量率計を使用して、測定した線量率と飛行時間の積から積算線量を求めることも行っています。また、エネルギー分布の測定には、ヨウ化ナトリウム・シンチレーション検出器を用いた携帯用ガンマ線スペクトロメータ(アロカ鰍フJSM102)を使用しています。
○中性子成分の測定器について
 レムカウンタ(三フッ化ホウ素ガスを用いた比例計数管)を使用しています。中性子成分の測定器は決して珍しい測定器ではないのですが、私のいるような大学の放射性物質を取り扱っている施設には通常は置いてないものです。
 また、藤高報告にある測定結果を簡単に紹介すると次のとおりです。なお、川島報告のなかではよくわかりませんでしたが、中性子の線質係数には10が用いられていることが藤高報告でわかります。 ○電離成分の測定結果について
 熱ルミネセンス線量計(TLD)による往復積算線量の測定結果は、成田−ロンドン路線が約30マイクロシーベルト(6往復の平均値)、成田ーニューヨーク路線が約45マイクロシーベルト(4往復の平均値)であったといいます。ヨウ化ナトリウム・シンチレーション検出器を使用した線量率計による往復積算線量の測定結果は数値としては特に述べられていませんが、藤高報告の図12のなかで棒グラフで示されてはいます。
○中性子成分の測定結果について
成田−ロンドン路線の片道積算線量の測定結果は約12.3マイクロシーベルト(往路2回、復路3回の平均値)、また成田ーニューヨーク路線の片道積算線量は約13.1マイクロシーベルト(3往復の平均値)であったと述べています。藤高報告によれば、熱ルミネセンス線量計(TLD)による電離成分の往復積算線量は過大評価となり、ヨウ化ナトリウム・シンチレーション検出器を使用した線量率計による往復積算線量は過小評価になるといいます。真値は両者のあいだにあるというわけです。
 ところで、上記の測定値を使って電離成分と中性子成分の合計の往復積算線量を計算すると、成田ーロンドン路線では約54.6マイクロシーベルト、成田ーニューヨーク路線では約71.2マイクロシーベルトになります。したがって、藤高報告の結論によれば、成田ーニューヨーク路線の片道積算線量は約35マイクロシーベルトであり、片道の飛行時間は約14時間なので、年間1000時間飛行すると仮定した場合の年間被曝線量は35÷14×1000=2500マイクロシーベルト、すなわち2.5ミリシーベルトの被曝線量になるわけです。
 しかも、これは電離成分の積算線量が熱ルミネセンス線量計(TLD)による値にもとづいているため過大評価になっており、ヨウ化ナトリウム・シンチレーション検出器を使用した線量率計による測定値にもとづくと約1.4ミリシーベルトになるので、真値は1.4〜2.5ミリシーベルトのあいだにあるというのです。これが「より現実的な評価」として藤高報告が述べている結論です。
 測定値の信頼性を別にすれば、藤高報告の結論の誘導に特に間違いがあるわけではありませんが、日本航空という大航空会社が1991年に発足させた宇宙放射線研究会が、成田ーロンドン路線と成田ーニューヨーク路線のわずか2路線しか線量測定を実施していなかったこと。しかも、測定回数が数往復程度と非常に少ないことに私は驚かされました。これまでこの研究会はいったい何をしていたのだろう。手前みそのようですが、レムカウンタのような高価な中性子成分の測定器がなく調査費もほとんどないけれども、日本乗員組合連絡会議の方がよほど真面目に調査活動をしているな、というのが私の率直な感想です。
 いずれにしても川島報告と藤高報告に特に間違いはないのですが、前述したように「生物学的立場からの評価」の望月報告は読むに耐えないひどい内容になっています。しかも、よほど気に入ったのか望月報告は放射線ホルミシスをまたもや持ちだして、次のように述べています。
 「最後に放射線ホルミシスという現象を御紹介しておきます。最近、放射線ホルミシスという現象が話題を呼んでいます。放射線にまったく被曝しなかった人よりもちょっと被曝した方が発癌率が低かったり、かえって長生きするという現象です。これは多くの動物と植物に認められています」と明言したあとで、フリゲリオらによる自然放射線量率と人のガン発生率とのあいだの負の相関関係を示す図を第25回健康講演会に続いて再び示し(図7参照)、「航空乗務員が被曝する線量はホルミシス現象が問題となる線量域であることを御参考までに申し添えておきます。以上で私の御報告を終わらせていただきます」と結んでいます。望月報告を聞いた健康講演会の参加者がどのように感じたかは知りませんが、一般人よりもちょっと多く被曝している航空機乗務員の方がかえって健康によく長生きする、かのごとき印象を参加者に与える目的で望月報告が用意されていることは明らかです。
 しかし、さすがにイイカラカゲンな自分の主張が公表されるのはマズイと思ったのか、「(放射線ホルミシスは)すべてが確立された研究結果ではありませんし、社会的な問題があるあるのでここだけの話としてお聞き下さい」と、望月報告はしっかり付け加えることを忘れていません。ところが、せっかく望月報告が「ここだけの話」としたものを、「講演会に参加された方も、業務の都合で参加出来なかった方も是非ご一読頂きますよう、お願い致します」とご丁寧にも当日の講演会のテープを起こし、日本航空の健康管理室が講演録の小冊子を作成してしまったのです。小冊子の形で公表されている以上、その影響力を考えて、敢えて望月報告の問題点を述べたいと思います。


B放射線ホルミシスとは何か(望月報告の問題点)
 放射線ホルミシスとは何かといえば、アメリカのミズリー大学名誉教授のT・D・ラッキーらが主張している「微量放射線の刺激効果」のことです。日本語表記は「ホルミシス」のほかに「ホルミーシス」、「ホーメシス」などさまざまで、まだ定まっていません。ラッキーは1982年に『ヘルス・フィジックス』という学術誌に放射線ホルミシスに関する総説を書き、200以上もの論文を引用し、「微量放射線の被曝は生物にとって有益である」ということを証拠だて、「生物の成長や増殖にとって、微量放射線はなくてはならないものである」と主張しました。この論文は世界中の関係者を刺激し、多くの議論を呼び起こしました。
 よく知られているように、少量なら人体に有益であるが多量になると有害である物質はたくさんあります。病院で患者が受け取るほとんどの医薬品がそうです。ある種の現象に関して、ホルミシスのような効果があり得ることは容易に想像がつきます。たとえば、ある生物個体に微量の放射線を浴びせる場合を考えてみましょう。微量の放射線によって、細胞のなかの遺伝をつかさどっているDNAに小さな傷ができたとします。すると、防御機構が働いて、DNA修復酵素の活動が活性化される可能性があります。DNA修復酵素が活性化された時期に多量の放射線を浴びると、あらかじめ微量の放射線を浴びていない(すなわちDNA修復酵素が活性化していない)生物個体と比べて、いわば「臨戦態勢」ができている分だけ致命的影響を受けにくくなる可能性があります。
 大変に有名な実験なのですが、フランスのH・プラネルは、ゾウリムシを入れた培養器を鉛で遮蔽し、自然放射線を浴びないようにするとゾウリムシの増殖率が減るが、天然の放射性物質であるトリウムを培養器に入れて自然放射線程度の強さの放射線を浴びさせると、再び増殖率の増加が認められると報告しています。また、ハエやネズミを使った実験では、少量の放射線を浴びさせたグループの方が寿命が延びるといった現象も報告されています。
Sizen.gif (4328 バイト)  したがって、こういうホルミシス現象が報告されているとおり本当に起こるのかどうか。起こるとした場合、どういうメカニズムで起こるのか。あるいは起こるときの線量の範囲はどのくらいか、などを研究することは放射線生物学的に大変意味のある重要なことであると私は思います。しかし、現在までのところ、放射線ホルミシスは研究対象にすべき興味深い現象であるとはいえ、十分に証明され確立された現象ではない点は忘れないでほしいと思います。現在の不十分な知識から何段階も飛躍して、望月報告のように(首唱者のラッキーも同様ですが)あたかも「放射線にまったく被曝しなかった人よりもちょっと被曝した方が発癌率が低かったり、かえって長生きする」などと主張することは明らかな誤りであるといえます。また、「航空乗務員が被曝する線量はホルミシス現象が問題となる線量域である」などと主張して、さも航空機乗務員が一般人より長生きし体によい労働環境下で働いているかのごとき印象をふりまくことは、犯罪行為ではないにしても許されるべきではありません。
 それに、放射線ホルミシスについては、統計誤差の問題などいくつもの批判や疑問もあります。たとえば、望月報告がよく引用するフリゲリオらによる自然放射線量率と人のガン発生率とのあいだの負の相関関係を示す図です。私も立命館大学の安齋育郎先生(当時東京大学医学部)と日本の場合について詳しく検討したことがありますが、自然放射線の線量率が高くなるほどガン死亡率が高くなる正の相関関係を示したガン(子宮ガンなど)がある一方で、逆に自然放射線の線量率が高くなるほどガン死亡率が低くなる負の相関関係を示したガン(乳ガンなど)があったり、あるいは相関関係をまったく示さないガン(全ガンなど)のあることを、10年ほど前に見い出しています。その結果の一部は『ジャーナル・オブ・ラジエーション・リサーチ』という学術誌などに発表しています(図8参照)。
 ガンの原因は自然放射線のほかにもいろいろありますから、自然放射線との関係だけで見ていたのでは不十分で、自然放射線以外の要因についても検討しなければなりません。そうであるにもかかわらず、自然放射線以外の要因について十分な検討を行わないまま、負の相関関係を示した事例だけを取り上げて、放射線ホルミシスの証拠だと主張してみても専門家の失笑や冷笑を買うだけです。その理由は、学問的に見て公正中立の態度とはあまりに程遠い手前勝手な態度だからです。少し難しい表現になるかもしれませんが、相関関係があるからといって因果関係が必ずあるとはいえないのです。要するに、フリゲリオらによる自然放射線量率と人のガン発生率とのあいだの負の相関関係を示す図は放射線ホルミシスの存在を証拠だてるものでは全然ないのです。
 放射線ホルミシスは放射線生物学上の研究対象であるべき興味深い現象なのですが、原子力発電所の立地にともなう住民説得の道具として使われてもいます。現に、放射線ホルミシスという言葉を知っている一般人はほとんどいないのですが、原子力発電所の立地が問題になっている地域に行くと、放射線ホルミシスという言葉を知っている一般人はかなりいます。しかも、理解の仕方は、望月報告流の「放射線にまったく被曝しなかった人よりもちょっと被曝した方が発癌率が低かったり、かえって長生きする」というものです。電力会社のPA対策、というよりPR対策のすさまじさには呆れるばかりです。
 結論をいえば、望月報告は、放射線ホルミシスを手前勝手に解釈し、航空機乗務員の宇宙線に起因する放射線被曝を真面目に憂える人びとを必至になって説得している、日本航空の非科学的で低次元な道具でしかないといえます。なお、望月報告とは違って、私の話には「ここだけの話」というのは全然ありません。大いに普及していただいて結構です。
 最後に国際的な権威を借りるつもりは毛頭ありませんが、国際放射線防護委員会(ICRP)が放射線ホルミシスを現在どう考えているのかを簡単に紹介しておきましょう。国際放射線防護委員会(ICRP)は第1委員会(生物学的影響に関する委員会)内に作業グループを作り、1983年から放射線ホルミシスの検討を開始しています。そして、ラッキーらの主張はかなり手前勝手なところがあるので、そのまま積極的には受け入れることはできないとして、ずっと検討を続けてきた経緯があります。
 そうした検討結果を踏まえて、国際放射線防護委員会(ICRP)の1990年勧告では、「今日、“ホルミシス”と呼ばれるこのような影響に関するほとんどの実験データは、主として低線量における統計解析が困難なため、結論が出ていない」と述べています。さらに、放射線ホルミシスを証拠だてる実験データの多くは放射線防護で問題になるガンや遺伝的影響以外の影響に関するものであるので、「現在入手しうるホルミシスに関するデータは、放射線防護において考慮に加えるに十分でない」と述べています。ややもすれば原子力産業界寄りに偏していると批判のある国際放射線防護委員会(ICRP)ですが、放射線ホルミシスに関する態度は以上のようなものです。
 「無用な放射線被曝はできるだけ避ける」、「避けることのできない放射線被曝は、被曝線量をできるだけ低くする」ことが依然として放射線防護の大原則である点を、望月報告はともかく、みなさん方は絶対に忘れないようにしてほしいと思います。


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