はじめに

 このパンフレットを作成した目的は、悲惨な航空機事故の再発防止を目的とするもので、日航123便事故の真の原因を明らかにし、正しい再発防止のための対策がとられる事を求めて作成したものである。

 日航123便事故は1985年8月12日18時25分頃、伊豆半島の東の海上を飛行中、異常事態が発生し、約30分飛行した後、18時56分頃、群馬県の上野村の山中に墜落した。
 乗客509名乗務員15名、あわせて524名が搭乗していたが、重傷の乗客4名が生き残ったのみで、520名が死亡した。
 これは1機の事故としては最大の死亡者数であった。
 この事故については既に日本の事故調査委員会(以下 事故調と略)が1987年6月19日、事故調査報告書を発表して事故原因の調査は公式には終了したことになっている。


報告書の結論は

原因
本事故は、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失を来したために生じたものと推定される。飛行中に後部圧力隔壁が損壊したのは、同隔壁ウエブ接続部で進展していた疲労亀裂によって同隔壁の強度が低下し、飛行中の客室与圧に耐えられなくなったことによるものと推定される。

 というものであり、尾翼を破壊し操縦に不可欠の油圧系統を破壊させたエネルギーを客室の与圧された空気の噴出に求めている。そのために客室の急減圧の存在が証明されなければならないが、急激な客室圧力の低下は、航空関係者の目には見いだせない。
 事故調の報告書の中にも、急減圧を証明はしていない。減圧を証明するために事故調が行った実験の結果については報告書が事実に反する疑いが強い。
 われわれは航空機の運航に直接携わっているものであり、航空の現場の状況には熟 知しているが、事故機のCVR、FDR、は極秘扱いにされており、その内容は事故調の発表したもの以外の情報はなく、直接CVRを聞く機会はなかった。残骸も一度見ることが出来ただけで、それ以降は見る機会はなかった。
 このパンフレットは、報告書をもとに現段階での疑問点と、事故原因についての考察である。

 遺族の方々については、その気持ちに時効があるはずもなく、航空関係に働くものにとって日航123便事故は忘れてはならない事故であり、経営者にとっても決して忘れることなく「絶対安全」の確保をめざして努力する義務がある。運輸省は航空の安全を国民に保証する立場にあり、日航123便事故からできる限りの改善点を引き出しその実現に努力しなければならない責任がある。
 ところが運輸省の事故調が行った日航123便事故の事故原因の調査は疑問だらけである。この事故調査については多くの航空関係者、検察関係者などからその内容の基本的なところに疑問が出されている。事故調はこれを現在のところ全く無視している。
 この事故については、世間では後部圧力隔壁の修理ミスによる急減圧が原因で垂直尾翼が破壊され、同時に油圧系統も破壊され操縦不能になり墜落したと思いこまされている。マスコミ関係でも「後部圧力隔壁の破壊」という言葉が123便の枕詞のように使われ続けてきた。その結果このような誤解を世間に植え付けてしまった。
 ところが、この圧力隔壁を原因とする推定には、多くの疑問があり、真の事故原因ではあり得ない。
 特に、事故調が隔壁説の核心部分であると考えた30万フィート/分(約9万1千メートル/分)程度の急減圧と、それに続く20分近くの2万フィート(約6千メートル)以上の高度を酸素マスクなしで、低酸素症にならずに、操縦可能か否かを明らかにするために、「ただならぬ意気込みで」行ったと言われる急減圧実験の結果について、報告書の記載は事実に反する事が明らかになっている。
 これと併せて、CVRの解読に至っては、乗員らが理解できないような解読、急減圧を否定する部分は解読が曖昧で、次第に変化していることなど、意図的に解読が変更されたのではないかとの疑惑が強く持たれている。
 急減圧が仮に存在したとすれば、何故乗員が急減圧に対する処置を全く行わず、操縦室と客室の間のドアーが設計強度以上の差圧が加わったと見られるにもかかわらず何故開かなかったのか、後部圧力隔壁より後方の(セクション48と呼ばれる部分)のプレッシャ・レリーフ・ドアが開いてたはずであると仮定しながらそのドアーは御巣鷹山まで機体から飛散せずに飛行できたのか、セクション48は設計強度としては差圧1.5psi(ポンド/平方インチ)とボーイング社の資料に明記されている。従ってそれよりもはるかに大きい圧力に耐える(事故調の推定では4psiの圧力に耐える)垂直尾翼のトルクボックスが破壊される前に、1.5psiでセクション48の部分が先に破壊され、空気は機外に放出され垂直尾翼は破壊されないのではないか?
 事故調は毎分28万ftの急減圧があったとすれば、乗員らは減圧を直ちに感知せず、緊急降下もせず酸素マスクを着用しなかった事実は乗員らにとっては考えられないことである。この点については当時の事故調査委員長は「酸素マスクをつけるよりもっと重大なことがあったと考える」と述べ('94.2.6 日本テレビ放映)、「その理由を明らかに出来なかった」と究明を放棄していた報告書の内容を訂正した。
 事故調の委員長が自ら70点のできの調査と採点していたが、これではとうてい「的確な事故調査」とはいえず、この事故を教訓としてなにを改善したのかも明確でない。この時期にもう一度123便事故を振り返ってみたい。
 急減圧が事故の真の原因でないことは以下に示す事実から明白になっていると信じるが、では真の事故原因は何であったのか、という疑問が残る。
 客室内の空気のために尾翼が破壊されたのでなければ尾翼を破壊したエネルギーは何処から供給されたものか、そこに真の事故原因がある。 300ノット(約550km/h)で飛行している機体が受ける空力的な力か、それとも他の飛行物体との接触によるものかどちらかにならざるを得ない。
 123便事故からすでに8年以上の歳月がすぎ、航空労働者の中にも123便事故を知らない世代も増加してきている。また事故の概要を忘れてしまった人も少なくない。この時期に再び123便事故を振り返り、真の事故原因を考えることは極めて重要であると考える。
 123便事故の経過を思い出していただくために、ここに事故調の作成した事故調査報告書の一部(飛行の経過の部分)を参考資料として添付した。

認定した事実

2.1 飛行の経過

 日本航空株式会社(以下「日航」という。)所属ボーイング式747SR−100型JA8119は、事故が発生した昭和60年8月12日、同社定期503便、363便、366便として、航空機関士(363便及び366便に搭乗)を除き事故時とは別の運航乗務員により運航された。
 同機は、366便(福岡ー東京)として17時12分に東京国際空港に着陸し17時17分に18番スポットに駐機して、その後123便(東京ー大阪)としての飛行準備のための点検等が行われた。
 東京航空局東京空港事務所に提出された同機の飛行計画は、計器飛行方式、巡航速度467ノット(真対気速度)、巡航高度24,000フィート、目的地大阪空港への経路は三原、相良、シーパーチ、W27、串本VORTAC、V55、信太VOR/DME、大阪NDBまでの予定所要時間は54分、持久時間で表された燃料搭載料は3時間15分であった。
 同機は、副操縦士の機長昇格訓練のため、機長が右操縦士席、副操縦士が左操縦士席に位置し18時04分に18番スポットから地上滑走を開始し、その後、18時12分滑走路15Lから離陸した(以下、付図ー1及び別添3、5、及び6参照)。
 同機は、24,000フィートに上昇中に18時16分55秒東京管制区官制所(以下「東京コントロール」という。)に対し、現在位置からシーパーチ(非義務位置通報点・大島から253度、74海里)へ直行したい旨の要求を行い、同要求は18時18分33秒に承認された。
 18時24分35秒、同機がシーパーチに向け巡航高度24,000フィートに到達する直前、伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かるころ、「ドーン」というような音とともに飛行の継続に重大な影響を及ぼす異常事態が発生し、その直後に機長と副操縦士によるスコーク77(ATCトランスポンダの緊急コード番号7700の意味)との発声があり、次いで、18時25分21秒東京コントロールに対して異常事態が発生したため22,000フィートに降下し、同高度を維持すること及び羽田(東京国際空港)に引き返すとの要求が行われた。18時25分40秒同機から大島へのレーダ誘導の要請があり、これに対し東京コントロールは羽田への変針は右旋回か左旋回かとの問い合わせを行ったところ、同機から右旋回を行うとの回答があったので、東京コントロールは同機に対し大島へのレーダ誘導のため右旋回で進路90度で飛行せよとの指示を発出し、同機は18時25分52秒これを了承した。同機はその後、伊豆半島南部の中央付近で若干右へ変針し西北西に向かって伊豆半島を横切り駿河湾上へ出たが、このころから同機には顕著なフゴイド及びダッチロール運動が励起され、これら現象はその後強弱に変化しながらも墜落直前まで続いた。18時27分02秒東京コントロールは同機に対し緊急状態宣言の確認を行い、次いで「どのような緊急状態か。」との問い合わせを行ったが同機からの応答はなかった。18時28分31秒、東京コントロールは同機に対し、再度「大島へのレーダ誘導のため、針路90度で飛行せよ。」と指示したが、これに対し、18時28分35秒同機から「現在、操縦不能」との回答があった。
 同機は、駿河湾を横切り18時30分頃静岡県焼津市の北付近の上空を通過した後、18時31分頃右へ変針して北上を始めた。このころ東京コントロールが、同機に対し「降下可能か。」と問い合わせを行ったところ18時31分07秒同機から「現在降下中」との回答があり、次いで、現在高度を問い合わせたところ現在高度は24,000フィートとの回答があった。18時31分14秒東京コントロールが「現在位置は、名古屋空港から72海里の地点、名古屋に着陸できるか。」との問い合わせを行ったところ同機からは、「羽田へ帰ることを要求する。」との回答があった。
 18時31分26秒東京コントロールは同機に対し、今後は日本語で交信してもよい旨を伝え同機はこれを了承した。
 18時35分ごろ、同機は富士山の西方約35キロメートルの地点付近の高度約23,000フィートで右へ変針して東へ向かい、その後18時38分ごろ、富士山の北北西約7キロメートル付近から左へ変針して北東に向かって飛行し、次いで18時41分ごろ山梨県大月付近の高度約21,000フィートから、約3分でほぼ360度右へ変針するとともに高度約17,000フィートまで降下した。その後の同機は東に向かって急速に降下をしながら飛行し、18時45分46秒「操縦不能」との返信を行い、次いで左へ変針して北東へ向かったが18時47分07秒同機から羽田へのレーダ誘導の要請があり、これに対し東京コントロールは「羽田の滑走路は22なので針路90度をキープして下さい。」との指示を行い、同機はこれを了承した。次いで18時47分17秒東京コントロールからの「操縦できるか。」との問い合わせに対し「操縦不能」の送信があった。18時48分ごろ、高度約7,000フィートで同機は東京都西多摩郡奥多摩町付近上空から左へ変針し西北西に向かって徐々に上昇しながら飛行し、18時53分ごろ高度約13,000フィートに達した後再び降下を始め18時53分31秒「操縦不能」を再度送信した。18時54分19秒同機は高度約11,000フィートで東京コントロールの指示により東京進入官制所(以下「東京アプローチ」という。)に交信を切り換えた後18時54分25秒同機から「現在位置を知らせ。」との要求があり、これに対し東京アプローチは羽田の北西55海里、熊谷の西25海里の地点を伝達したところ18時54分55秒同機はこれを了承した。次いで東京アプローチは18時55分05秒羽田も横田も受け入れ可能である旨を送信し同機はこれを了承した。その後は、東京アプローチ及び横田進入官制所からの呼び掛けに対する同機からの応答はなかった。墜落地点の南南西3〜4キロメートルの地点での目撃者(4名)によれば、「同機は東南東の奥多摩の方向からかなりの低高度、低速度で機首をやや上げて大きな爆音をたてながら飛んできた。飛行機は我々の頭上を通過したがその後北西にある扇平山(標高1,700メートル)の付近で急に右へ変針し東北東の三国山(標高1,828メートル)の方向へ飛行した。次いで三国山を越えたと思われるころ突然、左へ傾き北西へ急降下し、山の陰に見えなくなった。その後同機が隠れた山陰から白煙と閃光が見えた。」とのことであった。
 同機は、三国山の北北西約1.4キロメートルの稜線(標高約1,530メートル、付図ー13の一本から松の地点)にある数本の樹木に接触し、次いで同地点の西北西約520メートルの稜線(標高約1,620メートル、付図ー13のU字溝の地点)に接触した後、同地点から更に北西約570メートルにある稜線に墜落した。墜落した地点は群馬、長野、埼玉の3県の県境に位置する三国山の北北西約2.5キロメートルにある尾根(標高約1,565メートル、北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒)であった。
 推定墜落時刻は、18時56分ごろであった。

付図ー1 JA8119飛行経路略図

Keiro.gif (10932 バイト)


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